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いまではすっかり国民的催事として定着しているホワイトデー。実はホワイトデーがこれほどまで有名になるまでには様々な苦労が必要だったのです。ホワイトデーの仕掛人たちが、その思い出を語ってくれました。題して「ホワイトデー誕生秘話」です。
思い出を語っていただいた方々は、高柳全孝氏(ホームラン製菓)・大西康宜氏(カンロ)・篠崎新一郎氏(篠崎製菓)、宮川光市氏(宮川製菓)・菱木宏氏(扇雀飴本舗)・中西信雄氏(みやこ飴本舗)です。

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ホワイトデーの仕掛人たち
右手前から高柳全孝氏(ホームラン製菓)・大西康宜氏(カンロ)
・篠崎新一郎氏(篠崎製菓)、左手前から宮川光市氏(宮川製菓)
・菱木宏氏(扇雀飴本舗)・中西信雄氏(みやこ飴本舗)

対談:1988年9月 京王プラザホテルにて

中西 “愛する人にチョコレートをプレゼント”のキャッチフレーズで業界に定着したバレンタインデーに対応して、全国飴菓子業協同組合が「ホワイトデー(3月14日)はキャンデーの日」と決定したのが1978(昭和53)年6月のことでした。そして、80年3月には全飴協・関東部会が第1回のホワイトデー“愛にこたえるホワイトデー”を実施し、現在にいたっています。まず、「ホワイトデーキャンペーン」が、全飴協の総会で決定されたいきさつについて、委員長の高柳さんから話をしてもらいましょう。

高柳 69(昭和44)年ごろから、当時の全飴協の木戸脇太郎理事長が中心になって、組合参加の各メーカーとともに、「キャンデーの需要拡大をはかるには、どうしたらいいのか」ということで、いろいろな方法を模索していたんです。当時も、メーカーによっては、細々とホワイトデーのキャンペーンを行っているところもありましたが、単にバレンタインデーのお返しにチョコレートを返そうというくらいのレベルでした。しかし、結果的にはそれが我々に、「ホワイトデーキャンペーン」をはじめさせる、契機となったしだいでして‥‥。「バレンタインデーにチョコレートをもらって、同じ物を返すのも意味がなかろう。我々は、キャンデーが得意な分野なんだから、チョコレートではなくキャンデーを贈る日にしてみたらどうだ」というような意見が、組合内で出てきたんです。

中西 そして、78(昭和53)年6月の名古屋での総会となるわけですね。

高柳 そうです。ただ、一部には「ホワイトデー」ではなく、ただ単純に「キャンデーの日」にしたらどうか、という意見もありました。しかし、将来的見地からするとバレンタインデーのお返しという位置づけがあったほうが、需要拡大につながっていくのではということになり、ホワイトデー・イコール・キャンデーの日ということになったんです。

中西 あのときの総会では、たしか各地区部会からキャンペーンを実施する人たちが選出されて、関東では高柳さんと篠崎さんと宮川さんと私が。近畿では、ノーベルさんとパインさんと扇雀さん、そして大阪の中西さんが選ばれた。とにもかくにも、これが「ホワイトデーキャンペーン」へ向けた端緒となったんですね。

高柳 まあ我々も今より10歳は若かったので、とにかくバイタリティーと行動力があった。総会後すぐに関東地区部会へ戻って、会合を開き具体案の検討に入ったのです。たまたま、私は前にデパートでキャンペーンをやった経験があったので、売り場のディスプレイの設定とか、イベント関係のことについては、比較的スムーズにことを進めることができました。

中西 組合内で東京の中心は銀座だ、旗上げ興行をやるなら銀座でということになって、高柳さんもいろいろ苦労されたと思うんですが。

高柳 ただ、どういうわけか、銀座の三越が大変乗り気になってくれて、「ホワイトデーの元年は、銀座の三越からはじまった」ということで宣伝してくれといわれ、それに乗っかった感じですね。参加メーカーも7社ほどあったんですが、当時はまだ「ホワイトデー」という言葉が世間に浸透していなくて、起源とか意味とかいろいろ質問を受けました。

篠崎 日本で一番古くから残っている文献で、キャンデーの起源を調べてみると、3月14日の前後3日ぐらいずれた日付になっているんですよ。旧暦の日付だから、ある程度のずれはあるわけですが、とにかく日本のキャンデーの誕生した日という意味があることがわかったのです。

高柳 欧米では、「フラワーデー」とか「ポピーデー」とかいって、いわゆる恋人同士が単純に贈り物をし合う日なんですよ。むこうの習慣からいえば、草木も芽ばえるといって、花束などを贈ったりするんです。そういった欧米の要素に、日本的な要素をアレンジしたのが「ホワイトデー」であって、発祥は日本であるということでいいと思います。

宮川 キャンペーンをやろうと思って、最初の難関は予算の問題ですね。なにしろ恥ずかしい話、組合には予算がないわけでしょ、各地区へ帰ってキャンペーンの内容や予算の検討の段階に入ったら、関東以外の地区は、金がかかるわりには、もうけがないということで降りちゃった。関東は、理事長の江川さんが火つけ役だったせいもあるけど‥‥。

篠崎 はじめは、たしかに総論ではやるということになっていました、しかし、本当のところは各地区の実情があるから、それにあった方向でやろうということなんです。それより私が、一番困ったことというのは、本部が大阪にあったことです。関東と関西のキャンペーンに対する意識のズレというか、本部のほうはポスターをつくって、貼って歩けばいいやぐらいしか考えてなかった。ところが、関東のほうは高柳さんが経験者であったし、容器屋さんも、製品を入れる容器はどんなものがいいかという、検討をはじめているぐらいでしたからね。

高柳 ホワイトデー・イコール・キャンデーというような認識を定着させるまでが、ひと苦労でした。それまでは、マシュマロありクッキーありだもの。

大西 社内的にも何の反応もないわけ。何をやってるんだ、あいつは(笑)、という感じなんですよ。これじゃいけないと思って、社内で大英和辞典のホワイトというところをひいてみたら、シュガーとかスィートがでてきた。そこでシュガーをひいてみるとキャンデーとあった。ホワイトイコールキャンデー。スィートラブ(純愛)イコールホワイトラブと、ホワイトデーがキャンデーにつながっているんですね。単なる語呂合わせなんですが、やったと思いましたね(笑)。

中西 「ホワイトデー」という名前を浸透させるために、私も一役買ったんですよ。地下鉄に乗って、駅に近づくたびに、「ホワイトデーって知っているか」「ホワイトデーってのは、キャンデーを女の子に返す日だぞ」と相棒に大声を出して、落語みたいなことをやりました。あと、名前の問題でいうと「ホワイトデー」を商標登録しようとしたら、東京・三田の某デパートの人が個人でもっていたということもありました。

高柳 特許庁のほうには、江川さんを通して、「組合としては公共的に使いたい」旨をいってもらい、審査の対象としないという約束を取りつけました。ということは、「ホワイトデー」そのもののネーミングはないものであって、特許庁に申請されてはいないから、誰でもオープンに使用できるということになったわけです。

宮川 2回目からは、銀座のソニービルでもキャンペーンをやりましたね。

高柳 あれは攻めの効果というのが大きかったんだよね。ソニービルは、媒体としては最高だもの。

篠崎 1階が比較的安く借りられた。本当は物を売っちゃいけないらしかったけど。一般の物流店にも、キャンペーンを普及させなくちゃ伸びないと、思っていた矢先だったから意義がありました。

高柳 それに、電通さんがあちこちのマスコミに声をかけてくれました。

大西 キャンペーンは一応商売のためだけど、あのころは、あまりもうけのことは考えていませんでした。ともかくやってみようという気持が強かったし‥‥。

中西 たしかに、売り上げはそんなに気にならなかったですね。それより、キャンペーンをやっていて、いろいろと手応えがあったので、そっちのほうがおもしろかったぐらいだもの。

大西 無我夢中でみなさんやってたから。

宮川 三越でのキャンペーンにしても、エスカレーター真正面の一区画を全部、組合でやったんですから。

大西 みんなで体を張ってやったということが評価されて、拡がっていったんでしょうね。当時としてはデパートでの出発点もよかったのでは。

高柳 私たちの動きに、流通業界のほうが引きずりこまれたと、いうことですね。

宮川 そもそもデパートでやったのは、「ホワイトデー」の告知の意味でやったんですよ。

大西 印象に残っているのは、明治の管理部長の奥田さんが、「よし自社のビルにホワイトデーっていう垂れ幕を垂らそう」といってくれましてね。あれには感激しました。初期には皆さんはとにかく手さぐりで何かをしなければという気持が強かったですね。

高柳 純粋な気持で始めたから、こうなったんで、商売ベースで始めたら、違う結果になっていたでしょうね。

中西 つらかったのは、3年目でしたね。思ったように数字が上がらないものですから。

宮川 組合のなかでは、どんどん盛り上がってきたけど

中西 爆発的になったのは4年目の83(昭和58)年から。久保ホールで「ミスDJホワイトデーコンサート」というのもやりましたし‥‥。とにかく売れに売れました

大西 夜、なれない陳列を一生懸命しながら、武骨な男がショーケースの中をジイッと眺めている。ああいう努力の成果だと思うんです

中西 コンサートをやれば、出演した人がみな不思議なことに、売れるんですよね。変な話、黒沢さん(黒沢年男、86年・第7回イメージキャラクター)だってそうでしたよ。あれで中年パワーということになって、仕事がふえたんですから。

高柳 「ミスDJ」、あれはよかったですね。こっちが、あまり注文をつけないで、自由にやってもらったのがよかったのでしよう。

宮川 あのときは、東急エージェンシーが間に入ってくれましてね。ちょうど、文化放送が力を入れているときでしたので、じゃ、タイアップということになったのです。

中西 コンサートは全部で5回やりましたかね。TBS2回、渋谷公会堂2回、久保ホールが1回。

高柳 スポットは入れましたか。

宮川 最初の年から、よく飽きもせずやったと思います。知識も資金もない連中が、和気あいあいと力を合わせてやったのは「ホワイトデー」だからこそでしょう。「バレンタイン」は結局、個々の会社対応ですからね。

大西 ポスターをつくるのに、どうやって作るのか撮影現場へ全員で見に行った事もありました。キャンペーンが軌道に乗るまでが、手さぐりの連続でした。各社多数の人が街に出て歩行者天国でPRサンプリングを何回もやりましたね。ネクタイ姿で。

菱木 各方面で協力を項いていますが精糖工業会さんには今でも協力して頂いてます。ともかく、ある程度先が読める段階になって利益採算という事が
考えられるようになり、それまでは手弁当で奉仕してきたんです。

宮川 篠崎さんのところの、会社をあげてのバックアップがあってこそ、今日を迎えられるともいえますね

大西 結論的にいえば、もうからないことを延々とやって来た成果ですよ。少し逆説的な云い方ですが

高柳 どんなことでも、良いときもあれば悪いときもあると思うんです。そういった流れのなかで、商品の選定を誤らずに、今までやってきたイベントを踏襲していかなければいらないと思います。それは「ホワイトデー」というのは、キャンペーンというよりも、イベントを堂々として続けてきたことで成功した数少ない例だと思うからです。これからも、ますます発展していくんじゃないかと思います。

中西 皆さん本日はお忙しいなか、長時間有り難う御座いました。
皆さん御承知のように高柳委員長が第3回ホワイトデーキャンペーン後に転業されましたので、第4回から第10回まで委員長席を空席として、私が委員長を代行して来ました。ホワイトデー10周年記念誌の編集と発刊を区切りとして、私は7年間に渡る委員長代行を辞し、新たな委員長に篠崎製菓(株)篠崎新一郎社長と副委員長に宮川製菓(株)宮川光市社長を御願い致します。これからは、御二人による強力な御指導力を期待を致しす。

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